現在、6月ですでに川でも海でも死亡者のでる水難事故が発生しています。
用水路や池でも事故が起きています。
数年まえからさかんに、こどもがおぼれたときに「浮いて待て!」という啓蒙・啓発キャンペーンが行われていて、全国の各自治体で公費税金をつかった体験講座やプール授業なども行われています。
浮いて何を待つのか??
「救助隊が到着するまで平均8分かかるので、それまで浮いて待つ」
というような記事もネット上で見つけることができますが、
・それはどの土地、どの場所の話ですか?
・それは運良く近くに人がいて救援の通報をしてくれた場合。
・本当に8分で到着してくれますか?
こどもは習った通りに「教え」をまもり、おぼれたときに「8分間浮いて待っていて、そこにおとなはかならず助けに行くことを約束できますか???」
浮いて待つ子供の努力にこたえる責任を果たせますか?
果たすための最大限の努力をしていますか? おとなたちは??
こどもに努力をもとめるならば、おとなはその何倍も努力、たすけるための常日頃の努力をしなければいけないのではないか??
つねに地域のおとなが、まちぜんたいでこどもたちに目をくばって、こどものいのちをまもる努力をしよう!
毎日、それを積み重ねよう!
とてもわかりやすいことです。
まちのなかに歩いているおとな、そこにいるおとなが、だれであろうと、保護者であろうとなかろうと関係なく、近所に住んでいようが、通りすがりであろうが関係なく、
・川のまえを通ったとき、
・池のまえを通ったとき、
・用水路のまえを通ったとき、
・海のまえにいるとき、
・橋をわたるとき、
こどもが危ない場所にいないか、危ない状態でないか、気を配り観察してみる。
つねに、毎回、いつでも、だれでも、おとな全員がそれをする。実行する。
ただそれだけで、こどもの安全度があがると、私は思います。
救命救助の成功の可能性があがると、私は思います。
歩きスマホしていたら、こどもがあぶない目にあっていても、おぼれていてもそれが見えません。
耳栓イヤホンしていたら、こどもおぼれている水音がきこえません。
こどもに「浮いて待て」を教育するなら、そのまえに、それと同時に、おとながおとなとしての責任をはたさなければならないのではないでしょうか?
具体的なアイディア:
海や川へでかけるとき、つねに一つ余分にライフジャケットを持っていく。
そしてビーチや河原で常にじぶんのたち荷物置き場やレジャーシートの上の、みんなから見える場所においておく。
もし、だれかがおぼれたときに、それに気がついたひとが、いつでも勝手にもっていって使っていい、というふうにしておく。
「それがあたりまえ」という常識になっていくといいなと思っています。
(私はこれを実行しています。)
・川の場合は救助ロープでも良いが、ロープは油断すると子供があそんで首がしまる危険があるので要注意。浮き輪の場合も同じ。風にながされやすい。
・ゴムの足ヒレ(フィン)があると海でも川でも体力を消耗しないで泳げる。
いざというとき冷静にそれを装備して使えると生還確率があがる。
石がごろごろと多い川では手袋があったほうが安全です。
けがして出血すると体力も奪われます
・基本的に水のなかにはいっての救助活動は、現役で泳ぎと体力持久力に自信があって、水難救命の知識があるひと、冷静さを保てる人、要救助者よりも体の大きさや腕力が上回る者が行うのが良いと思います。
「むかし学生時代に普通に泳げた」記憶や自信を持っていても、中年になっていたら現役日常的にスイミングなどしてないと本当にすぐに息があがってうごけなくなります。命の危険が高く非常にあぶないです。
(水に入らなくてもできることはたくさんあります。まず陸から119番か、海なら118番通報。大きな声でまわりの大人に助けをもとめる。分担できればAEDを取りに走ってもよい。ロープや棒をさがしたり、手繋ぎ救助や、河原を走って狭くなってる流れ着きそうな救助できそうな場所で待つのもよい)
防犯ブザーもおなじ
「身を守るために防犯ブザーをつけましょう」という呼びかけがあります。
しかし、防犯ブザー自体には子供を守る防御機能はありません。
防犯ブザーが鳴って、周囲のだれかが助けるためにうごいてくれて、はじめてその防犯ブザーが役に立ちます。
まちにいるおとなが、耳栓イヤホンをしていたら、防犯ブザーの音も、こどもたちの「たすけてー!!」の声もきこえません。
まちぜんたいで、おとな全体でこどもたちをまもろう!
ときどき「不審者にまちがえられるので、こどもに声をかけるのをためらってしまう」
という声がでてきます。
いったい「じぶんが不審者にまちがわれること」と「こどもの命、身の安全」とどちらがたいせつでしょうか?
そんなことすらあらためて考えないとわからない時代、社会状況になってしまったのでしょうか。
「不審者」とはいったい何者でしょうか?
常日頃から「不審者」でない生き方、はずかしくない日常生活をすれば済むだけの話です。
なぜその程度のことができないのでしょうか?
まちじゅうに防犯カメラがあり、道ゆく車の多くにはドライブレコーダーも搭載されている昨今です。
そのひとがあやしいか、あやしくないかはもし誤解があってもすぐに解けます。
もし、不審者だとあやしまれて、詰問されたり、職務質問されたり、「不審者情報」に情報が投稿掲載されたり、警察に通報されたとしても、それがいったいどれほどのものでしょうか? こどもの命がたすかったり、ケガをしない、犯罪に巻き込まれないで済むのだったら、そんなのはとるに足らないちいさなことだし、
その程度の「損」や「いやなおもい」は、おとながいつだって引き受けてあたりまえ、がまんしてあたりまえの、社会的役割だと、わたしは思っています。
そして、たとえ何度かイヤな思いをしたとしても、一度二度、そういう身元確認や身元しらべ、話し合いを経れば、「ああ、あのひとは、どこそこに住んでいて、どんな仕事をしてる、なになにという名前のひとで、不審なひとじゃないです」という情報が地域に周知されるはずです。
まちのなかの「不審者」を減らすには、「不審でないひと」の数を増やしていく。
それがいちばん正当なやりかたではないでしょうか。
一朝一夕ではなく、住民のひとりひとりの、毎日の積み重ねで、安心なまちをつくっていく。
私はそんなふうに考えています。
交通安全でこどもに対して「車に気をつけるんだよ」と教育や注意をするのならば、
それをするおとなは、その10倍も、100倍も、安全運転や、交通安全のお手本を実行してみせてあげなくていけないはずだと、わたしは思います。
2024年6月23日: のちほど修正加筆するかもしれません