危険なゴミ拾いを遊びにすることへの問題提起

私はふだん、あまり他人のやることに批判的な意見を言わないようにしています。

世の中は、なるべく、のびのび、各自のやりたいように自由におおらかなのがよくて、その総和としてほどよい社会ができていくのが自然で健康的なのではないか、そんな風に考えているからです。

たとえば、私は、毎日まちのなかでゴミ拾いをしていますが、ゴミを捨てる人がいても注意することはしません。
タバコを捨てる人がいても、注意することはしません。
交通安全の運動をしてますが、まちのなかで信号無視するおとなの人がいても、注意することはしていません。
信号を渡ろうとする人たちの流れを無視して目の前を横切るランナーや高速自転車、立派なスポーツ装備で歩道を走る自転車にも注意はしません。
おとなは、じぶんの行動を、じぶんで決めるもの。
じぶんでどうするか判断して行動すればいい、そう思っています。

(※こどもには安全なタイミングであれば声をかけます。子供がうごいている時に大きな声で注意するのはやめましょう。おどろいたり振りむいたりしてよけい事故原因になります。→ くわしくはまた別のブログ記事に書きたいと思います。
私の活動は「自警団」とはまったくちがいます。交通事故や犯罪が起きる直前の危険な状況に限って地元住人という立場、ひとりのおとな成人男性として、リスクと責任を引き受ける覚悟をもってその場合だけ手や口をだして介入します。)

最近、世田谷区内の公園には「喫煙禁止」の注意書きがついた真新しいカラーコーンがベンチ横に設置されることが増えました。たぶん住民から要望があったのかなと推測しますが、私個人としては、あまりこういうものを増やすのは良いことだとは思っていません。撤去できるのならそうしたほうがよいくらいに思っています。(もちろん地域のみんなで決めていけばよいことです)
たしかに公園のベンチには、毎日れんぞくして、弁当の空き箱やタバコの吸殻、なんだかヤケになったように大量の空き缶がうち棄てられています。(まるで自分の存在を知ってもらいたくて主張するかのように。)
私は、そういうゴミを数え切れないほど拾っていますが、そういう場面に出会ったとき、腹が立つことはあまりありません。
どちらかというと、ゴミをすてたひとの生活の苦境や、依存症に関する心配や、そのひとのこころの痛みを思います。
そして、ごみなんか私が拾えばいいよ。いま気持ちや体力に余裕のあるだれかほかのおとながひろえばいいよ。弁当とタバコ買うお金があるだけまあ、なんとかなってるんだから生活は大丈夫かな。もう外で飲むには缶チューハイじゃなくて温かい飲み物のほうが寒くなくていいんじゃないかな。。そんな風なことを考えながらゴミを拾います。
ゴミなんかたいした問題じゃない。いのちのほうがだいじ。


ゴミ拾いを遊びとしてやること

以前からそういう企画、イベント、お金儲けや営業人脈づくりを目的とした行為、税金をつかった活動、があちこちで存在することは知っていましたが、「人」というのはいろんな考えがあったり、やりたいことがあるわけだし、私自身の考えだけが正しいというわけでももちろんないので、そういうモノに対して批判的な意見を述べることはしないでいました。

しかし、2020年11月、じぶんの住む世田谷区が運営する施設が「ゴミ拾いを遊びとしてやるイベント」を宣伝告知しているのを知り、
こどものいのち にかかわることなので、
問題提起する必要をかんじました。

<みなさんによく考えてほしい問題点>

・東京都世田谷区 という都会のなかでのゴミ拾いはたいへん危険な行為

・海外の広大な自然を有するフィールドアクティビティ(走りながらゴミを拾うという遊び)を安易にもちこむにふさわしいロケーションかどうか

・全国でゴミ拾い作業中に交通事故に遭われたいくつもの事例があり、死亡事故もある

・昨今、実際の道路公道でアプリ、ゲームが原因で起きた子供の死亡事故がある

・まちなかでジョギングする人自体がすでに「交通弱者」にとって危険な存在。それをさらに掃除の装備で膨んで素早いスピードで動きまわることがどれほど危険で、ゆっくり歩いている人達にとって脅威に感じられて怖いか、実際に当事者に意見をきいてみたか

・現在、町の中の歩行者道路や路側帯には「速度のはやいスポーツタイプ自転車」「速度のはやいバッテリー自転車」「配達業務用自転車」「キックボード」「電動キックボード」「歩きながらスマホする人」「自転車を走らせながらスマホする人」「バイクに乗りながらスマホする人」「高齢者や子供が怖さを感じるスピード・間近さでジョギングする人」の交通量が極端に増加している

・無責任なカーナビゲーションや無思慮な「ぬけ道」「裏道」情報の氾濫によって、子供のいる住宅街やせまい道に幹線道路を走るスピードのまま進入してくるクルマが増えている

・都会でのゴミ拾いはゆっくり周囲のジャマにならないように気をつけていても通行人に迷惑をかけてしまうことが起こりえる(例えば、おもいやりで道をゆずったつもりが実は自分がよけた場所に自転車を置きたかったとか、逆にそこにある自転車を出したくて近寄ってきたとか。)
歩道内で「ゴミ拾いしているひとがいるからよけよう」ということで車道にはみ出したり、交通事故を引き起こす要因にならないための慎重な配慮が一挙手一投足、常に必要なのを知らなくてはいけない

・海、川、山 はみんなで一度に取り組むことに意味がありますが、街の中ではみんなで一度に集まって団体でゴミを拾っても拾えるゴミの量はあまり変わりません。(みんなで拾い歩いても先頭のひとが拾えば後続の人が拾うものは無いので。)
もちろん普通に考えて「良い事」ですが、通行人にとってはジャマでもあります。
大人みんなが別の日、別の時間、別の場所でそれぞれ気づいたゴミを拾うやりかたのほうが、町全体が日々きれいな状態に保っていけるのではないでしょうか

・私個人の強い意見として、子供には街中のゴミ拾いは危険なので させないほうがよいと考えています。
「ゴミ拾いは良いこと、ほめられること」と子供がおぼえてしまうと、いつか子供がひとりで道を歩いているとき、つい反射的にごみを拾おうとして交通事故に遭ってしまう事をつよく心配しています。
そういう事故の可能性、確率をあげてしまうことを心配しています。
ゴミなんかよりも こどものいのち のほうがだいじ です。
おとながゴミを拾う姿、おとながゴミをすてない姿がまちのなかにあり、それが目にはいれば、それでよいのではないかと私は思っています

・都会と地方で想像する危険なイメージには差がでるだろうと予想します。都会の歩道・路側帯を行き来する人や乗り物の交通量、人口密度、危険度はかなりのものです。
また、歩道は場所によっては電柱、はりだした植え込み、ガードレールなどに幅員(はば)を圧迫されてさらに狭くなっていて人一人がすれちがうのも危険な場所があちこちに点在します。

・先日も実際に目撃しましたが、「交通事故」としてニュースになったり警察の統計にあがってこない小さな接触事故などは町の中で毎日おきています。手間がかかることを避けたくて通報しない、病院へ行かないというだけで、実際すりむいて出血したり、転んで打ち身になることなど、歩道通行中の小さな事故は、自転車や歩行者のあいだで頻発しています

・もともと町の中や公園にあったゴミ箱は結局どうしたのか?
そのゴミ回収にかかる継続的に発生する費用予算の浮いた分、人員はどうしたのか? むかし言われた「テロ対策のため」という理由づけはいまもって通用するのか?(今日現在ほとんどの諸外国では屋外にふつうにゴミ箱が設置されています)
技術革新(例えば、新型ゴミ箱の開発、透明化、IoT連携、リアルタイムセンサ搭載、防犯カメラ化、無線基地化、公衆電話が減った代替の110番通報テレビ電話化、防災情報告知放送掲示板システム化、通信会社連携、企業連携)で、子供や地域の安全施策と連動でできる工夫がありそうではないか

・税金から定期的に支出され報酬を受け取っている「ゴミ拾い」の団体・理事という方はどういう存在なのか。特に今年は「ゴミ拾い」自体が中止されているのに報酬だけ支払われている団体もあるようです

・そもそも、本来の清掃事務所、公園管理事務所が存在します。さらには清掃業務委託で設備(水まわりや遊具)保守点検管理や植木屋さんやシルバーセンター、福祉事務所やNPOへの予算支出はすでに様々なカタチで存在します。道路を管理する区だけでなく、都、国など各行政管轄にも清掃維持の業務や予算が存在しています

いま、世の中には
「社会に対して100万円ぶん役に立つことをします」という名目で公費・税金から1億円の予算をもってきて、仲間内でこっそりわけっこしてしまう(しかも毎年)事態が乱発しています。
「ゴミ拾い」だけでなく「スポーツ」も「芸術アート」も「教育」も。
「交通安全運動」や「防犯キャンペーン」といって意味のわからない芸能人や広告代理店をつかったり。それが交通事故防止のための呼びかけの言葉をかえって軽い、防犯注意喚起の言葉を効きめの薄いものにしてしまっていないか。
そういうことが多すぎる状態になっていると思いませんか?

なかにはメディア上の宣伝だけ一瞬はなやかでそれでおわり、実際の成果がまったくなかったり、かえって負債やゴミや迷惑や諍いを生じさせたり、実施すらされなかったり、ときには子供やひとのいのちを危険にさらすことさえ度外視した手前勝手な金儲けが「世の中にとってためになる良い事」としてまかりとおる、まかりとおすような実情があります。

そういったことが、世の中を大きくゆがめていったり、世の中の治安を悪化させたり、詐欺や強盗をふやすことに影響していないか、
子供の自殺を増加させていないか、
学校教師や警察官の倫理観をさらに欠如させていくことに影響していないか、
私自身を含めた、おとなが、かんがえていく必要があろうとおもっています。

子供がお店でお菓子を買うときもアイスを買うときも、問答無用で税金をとられます。
そのお金をむだづかいできますか? あなたは受け取れますか?
「年金」「給付金」「保護費」「還付」を受け取っていないホームレス状態のひとであっても買い物のたびに税金を一方的に支払っています。支払っているのです。受け取らずに。
税金をむだづかいしている人間のほうが威張っている世の中がどんどん加速していくことはよいことでしょうか。
今日現在の日本国内にも、おにぎりひとつが食べられなくて餓死して亡くなる日本人がいることを私はわすれることができません。
税金をムダづかいしたぶんだけ救われる命が失われ、
世の中のいたみが、ひとつふえ、ひとつふえ、ずっと見過ごしていけば、そのツケを払わされるのはいまいるおとなたちではなく、こどもたちです。

「虐待」や「いじめ」のニュース報道に接することがあります。
虐待をしているのは、ほんとうにその若い父親や、若い母親なのでしょうか。
あなたは、じぶんは、社会に対して「虐待」を行いながら、加害者なのに知らぬ顔で贅沢に興じながら、社会に対してえらそうだったり傲慢だったりする「意見」を口走る、もしくは、口をつぐんで見ないふり知らぬ顔を決め込むようなことをしていないか、
もういちど考えてほしいと願っています。

参考:
1997年11月 世田谷通り 隼ちゃん事件 (Wikipedia)
2020年6月 世田谷区上野毛 スケートボード死亡交通事故
2020年8月 世田谷区上用賀 父親遺体放置事件
2020年9月 世田谷区上用賀 ガス点検強盗(全国で今も発生)

2020年1月 東京品川区大崎駅前横断中バイクひきにげ
2019年4月 東池袋自動車暴走死傷事故
2019年5月 大津園児死傷事故
2019年5月 川崎市登戸通り魔事件
2019年9月 山梨キャンプ場女児失踪事件(未解決)

2006年5月 北九州市門司区餓死事件
2007年6月 北九州市小倉北区生活保護打ち切り自死
2007年7月 北九州市小倉北区おにぎり餓死事件
2009年4月 北九州市門司区9円餓死事件
2004年1月 岸和田中学生虐待事件

2020年6月 東京大田区 蒲田女児放置死事件
2020年9月 香川県高松市女児二人車内熱中症死事件
2020年10月 東京杉並区 母子三人無理心中
2020年6月 千葉市 中学生踏み切り飛び込み
2020年10月 千葉市 高校生踏み切り飛び込み
2020年10月 大阪市北区 高校生飛び降り大学生巻き添え
2020年3月 岐阜市ホームレス襲撃事件(横浜ほか多数)

これはごく、ごく一部であり、報道やニュースになったり話題にのぼる事件や事故は実際に起きた全体のほんの一部です。

「社会」は つながっています。



関連ブログ:
子供にゴミ拾いは すすめません
【私見】傘さし登下校を心配


それは 私が一番 のぞまないことですが、ゴミ拾いを遊びやお金儲けのイベント化することによって交通事故が起こった場合、この記事の内容は、「予見可能性」「回避義務」について「世間では危険性を指摘する声もあった」というひとつの証拠になると思います。(損害賠償請求裁判 時)

それを踏まえたうえでの覚悟、責任をもってそういうイベントの実施、さらなる安全配慮が検討されることを願って。
金儲けのために 子どものいのち が ないがしろにされる世の中をつくりださないように。


この「問題提起」を「口うるさい」ととるか、
「ここまでは気がつかなかった、死亡交通事故がおきるまえに意見がもらえてよかった」
と受け取るかは、それぞれの人間次第だと思います。
わたしは、毎日ゴミ拾いをしている私が言わなくてはいけないことだと思い意見を述べました。たとえ損してでも。

あなたは、どうかんがえますか?


※更新 2020年 11月17日
 記事初出 2020年 11月6日

文責は、すずきじゅんじ にあります