「歩道で走るとあぶないよ」と言ってくれる人がいない社会はしあわせか?

⭐️ 世田谷区内で大柄な外国人ランナーが危険なスピードで歩道を走って、高齢者や子供達を蹴散らしながら疾走する姿をときどき見かけます。
 まず、日本人で特にスポーツをやっているおとなの男が、街の中でお手本となる「まわりのひとの安全を第一に考えた思やりジョギング」のやりかたを見せてほしいと思います。
 歩道の上をすすむ際に「おもいやり」がない人が、車や自転車に乗ったときに「おもいやり運転」などできるでしょうか?
(追記:2024年4月)

4月22日 追記:
皇居周辺歩道利用マナー – Manners when using the sidewalk …
(千代田区)


「駅伝」「マラソン」「持久走」「陸上競技」「長距離走」いろんな走るスポーツがあります。
しかし、いかなる走るスポーツ競技にも、その大会や本番で「歩道を走る」というスポーツは存在しません。
皆、車道上や、マラソンコース上、競技場のトラック上を走ります。
歩道は走りません。 そんな競技者はいません。

「あるくみち」と書いて「歩道」。
歩道には、ちいさな子供もいます。重い荷物を苦労しながら歩いて運ぶひともいます。高齢者がつえをついて歩いたり、足やからだの具合がわるくて、一歩づつたいへんな思いをしながらゆっくり歩いているひともいます。

自転車で歩道をはしるときでも、かならず自転車は歩行者を優先して、徐行したり、一時停止したり、自転車を降りて押したり、する必要があります。


ひとは、なんのために身体きたえるのか?

町のなかを走ることができるひとは、一般的には、普通よりも体力があったり、運動神経がよかったり、からだが丈夫なひとの場合が多いと思います。

歩行者よりも強い人が、歩行者をあおったり、歩行者を危険にさらしたり、いきおいよく歩行者のそばを駆け抜けて怖がらせるようなことはしないほうがよい、と私は思います。

強い者が弱い者をまもる、ゆずる、いたわる、おもいやる社会であってほしいと私は思います。

社会はつながっている。
そう私は考えています。

歩道で歩行者をこわがらせるようなジョギングやマラソンをしているそのひとが、じゃあ、自転車に乗ったとき、車に乗って運転席でハンドルを握った時、
はたしてじぶんよりも「交通弱者」に対して「おもいやり運転」ができるでしょうか?
日常の生活のなかで、「おもいやり」を発揮できるでしょうか?

社会はつながっていると、私はおもいます。
実際に、交通安全は、たて方向にも、よこ方向にもつながっていると思います。

とくに「補助金」など大きな公費税金予算を受け取っている「大学」運動部や「スポーツ財団」、「世田谷区」や「東京都」など「公(おおやけ)」が関係する陸上スポーツやマラソンイベント関係者、「教育者」や「指導者」という肩書きがついているおとなのひとには、真剣にかんがえてほしいと思います。

どういうお手本をまちのなかでみせるべきなのか? を。

公費税金をつかってじぶんたちは社会のなかでいったいなにをしているのか?
社会を、街を、日本を、どうしていきたいのか? 


私がこれまで、まちのなかで「危険なジョギング」をしているのを目撃したのは一度や二度でなく、一年ごとに百回ちかく あります。

ひとよりも健康なひとのほうが、かよわい歩行者を危険な目にあわせてしまっている現状、「逆転してしまっている常識」について、私のようにそれが言える人間が声をあげなくてはいけないと思い、この文章を書きました。

たとえじぶんが損をすることがあっても、ひるまずに、世の中のおかしいことに対して、おかしいのではないですか? と声をあげる。

社会はつながっている。

歩道をはしること。それはよいことなのかどうか。
運動してからだをきたえるのはけっこうなことだとして、では、みんなのいる公共の場所で、どうやってそれをするのがよいのか。
それについて、みなさんがそれぞれに一度かんがえてみてほしいと思います。

毎日のつみかさねで、町を、地域を、社会を よりより方向、やさしさや、おもいやりのある方向へかえていく。

(★ときどき海外でも、狭いハイキングコースの自然道を疾走するランナーと歩行者がぶつかってケガをするニュースがあったり、トレッキングコースの板張りのデッキや自然道をジョガーが壊してしまう話があります。
 現在、日本国内の登山客が多い山などでは、地元や関係団体が「歩行者のいるところで走らない」というマナー向上の啓蒙活動をおこなう取り組み、うごきがではじめています。

ここではジョギングの話をしていますが、
歩道上でじぶんよりも弱そうなひとに対して威張り散らしてすすむ自転車や、
からだの大きなおとなの男性が歩きスマホをしながら高齢者や子供を蹴散らすように歩く行為についても同じことが言えます。
歩道を自転車で暴走すれば、ある日べつの時間、べつの場所で、じぶんの大切なひとが、暴走自転車に危険な目にあわされてしまうかもしれません。)



こういう意見をブログで書いて、インターネットで公開すれば
「口うるさいやつだな」「生意気なやつだな」
という「批判」がきたり、反感や不興を買ったりもします。

それでも、私はそういう「損」は引き受けよう、という信念をもって「みまもり」活動をしています。

(声をあげる人間がいれば、現実として、多少なりとも「口うるさいやつがいるから走るスピードをおとそう」「人がいるところでは歩こう」「歩道で他人のすぐそばをかけぬけるのはやめよう」
という抑止のちからがはたらいて、すこしは歩道上の危険度がさがります。)

なにか「おかしいな」と思ったことを、丁寧に自分の心の底にある声と相談して、冷静にかんがえて、それでもおかしいと感じたこと、それをそのまま放置すると、社会はその積み重ねでだんだんとおかしな方向へすすんでいって、その蓄積で大きくゆがんでしまう、実際にそのゆがみがいまの社会のいたるところにでていることは、多くのおとながそれを感じて、知っているはずです。

おとなが勇気をもって行動する。発言する。
立派なことを言って、立派な行動をする。
自分自身を棚に上げずに、公では公にふさわしいふるまいをこころがける。