「そんなひどいことをするのはやめておこうよ、な?」が通用する日本社会をつくる、たもつ

なにか事件や事故が起きてから怒ったり悲しんだりするのでなく、治安が悪くなってからさわぐのでなく、
治安の良い、事故や事件の起こらない平和なうちに、毎日のつみかさねで、そういう町の「空気」=「治安」をたもっていく、維持していく努力をつづけるのがたいせつなんだと、私(じゅんちゃんおじさん)は思います。

そして、その役割をいちばん大きく担うのは、その町に住んでいる「おとなの男」「つよい男」。
おとなの男が、町のなかでつねに、その仕事をして責任を果たさなくてはいけないと、私は考えています。

強い者が、弱い者を、まもる。たすける。ゆずる。
いつでも、どこでも。

まず、おとなである自分自身が、若者やこどもたちのお手本になること。
おとなの男が、やさしさや思いやりを見せる。

おとなの男が、町のなかで弱いものいじめや、ひきょうなこと、ずるいこと、みっともないこと、をしていたら、
若者や子供たちはそれを見て育ちます。マネをします。

体の大きなちからのつよいおとなの男が、
「ぶつかりおじさん」にならない。
「あおりおじさん」「どなりおじさん」にならない。
頭のよいおとなの男が、社会のなかで、自分だけ得をするウソをついたり、金儲けのためによわいひとをだましたり、卑怯な詐欺やインチキをしたりしない。

社会はすべてつながっている。
そう、私は考えています。

つよいおとなの男が、だれもみていない、バレないと思って、ずるいことや、弱いものをだますようなこと、弱いものいじめをしていれば、その影響はかならず社会につながり、伝染していき、社会のはしばしで、弱いものいじめや、卑怯なおこないがはびこり、
犯罪がふえて、治安が悪化していきます。

社会はすべてつながっている

もういちどそのことを、おとなの男ひとりひとりが自分自身をふりかえって考える必要があるのではないか。

自分が毎日現実にやっていること「自分自身を棚に上げて」、社会になにかを望んだり、期待したり、意見をするなどという勝手が通用するのかどうか?

おとなの男たちが無茶苦茶なこと、でたらめなことをしていれば、
その「ツケ」や被害は、町に住んでいる弱い者たちへむかってしまいます。
こどもたちや、女性や、高齢者が、ぎせいになります。

おとなの男たちが卑怯なことや、理不尽なことを公(おおやけ)で ひらきなおってやっていれば、
その理不尽な「歪み」は蓄積されて、そしてある日、暴力や犯罪というカタチになって、弱い人たちへ向かって暴発してしまいます。

キレイゴト、正義、秩序、公徳心、理想論なんて、しったことか。
おれには関係ない。
自分だけ得すればいい。
他人のことなんか知ったことか。
正義なんて、かっこつけて、偽善者ぶって、
けっきょくだれだって自分の金儲けだけだいじじゃねえか?

あなたは、そう考えますか?
わたしは、そう思いません。

もし、町が寝静まった深夜、あなたの家に凶器をもった集団がちからづくで強盗に押し入ってきたとき、家族の命乞いをするあなたに対して、
「おまえらの命など知ったことか? じぶんだけ得すりゃいいんだよ。
 あ? おまえだって、いつかそう言っていただろうに」
そう言いながら刃物を突き出された時、なにを思うでしょうか…?


「そんなひどいことをするのはやめておこうよ、な?」が通用する日本社会をつくる、まもる。
治安が悪化して町が「こわい町」になってしまうまえに。

それをまずやるのが、大人の男たちのしごとだと私は考えています。


2024年12月18日 初出
のちほど加筆修正する予定です