町のなかでゴミ拾いをしているときに、子供座席付自転車に乗ったお母さんに「ごめんなさい」とか「すみません」とか言われることがあります。
車道沿いのガードレール付歩道のなかで、自転車のお母さんやお父さんに「ごめんなさい」と言われると、いいえ、通行のジャマなのは私のほうです。こちらのほうこそ、ごめんなさい。
という気持ちです。
なるべくこちらが早めに気づけるように前後左右に気を配っていますし、気づいたらなるべく通れる空間を広くあけて、まだ距離があるうちに、すみに寄って待つようにしていますが、電柱や壁などで見通しがきかない場所では、互いが近づいてから避けるしかない場面もあります。
お母さんが自転車で通り過ぎるとき「道をゆずってくれてありがとう」の意味の「すみません」だったり、「ゴミ拾いのジャマしてごめんなさい」の意味の「ごめんなさい」の声をかけてくれるのです。
これは、ゴミ拾いをしている私のほうがジャマで、お母さん、お父さんたちはなにもわるくないです。子供を前や後ろに乗せて、買い物までして、暗くなった町を昼間の疲れもあるなか、重い自転車を一生懸命こいでいるところに、よけいな気をつかわせてしまって、本当にこちらのほうこそ、すみません。
ときどき、歩道を対向して自転車がきて、私がそれを避けるつもりで歩道につながっているマンション入口に身をひくと、そのマンションに帰りたい自転車で余計ジャマだったりする失敗もあります。
私が停まって対向する歩行者を避けて行き過ぎるの待ってるつもりが、じつは私のよこに駐輪してある自転車をだしたくて私が動くのを待っていて互いに「お見合い状態」になって立ち尽くしてしまう失敗もあります。
ごめんなさい。
ついでに言ってしまうと、
自転車の走行というのは「流れ」というものがあるし、現実の町なかの道路というのは理想どおりの設計にはなっていないので、蛇行や斜めに進むのが自然だったり安全だったりする場所も存在します。駐輪場からはみだしているモノや看板や路上駐車、商店街の道路ではあちこちうごきまわる歩行者も避けなければいけないし、そもそも、自転車の出発地点と目的地点によっては全部のルールを守って走行するのは至難のわざです。それはよくわかっているのです。
だから、私は「交通安全」に関するメッセージボードを身につけてゴミ拾いをしていますが、特に、子育て中の子供座席付自転車のお母さんやお父さんに対して、交通ルールを絶対守りましょうとか、ルールをやぶったらダメだから咎めだてするだとか、そういう気持ちは一切無いのです。
結果として子供がケガをしなければいい。人が事故にあわなければいい。
ルールよりもいのちがだいじ。
たとえルールや信号をまもっても、交通事故に遭ってしまうことがあります。信号機自体には人間の体をまもってくれる機能はついていません。だから、どうか、自分の目で見て、自分の頭で判断してじぶんのからだ、子供の体をまもってほしい。
それが最優先でだいじなこと。
そういう気持ちでいます。
ただでさえ忙しく、子育てで疲れくたびれて自転車をこいでいるところに、もしわたしの「交通安全・みまもり・ゴミ拾い」活動の存在がさらにストレスのもとになっては申し訳ないと思い、こういう気持ちでいることをお伝えしておきたいと思いました。
子供座席付自転車のお母さんお父さんは、「歩道」と「車道の路側帯」どちらでも各自の判断で、より安全で走りやすいほうを通行すればよいと私は思っています。(現行の法律も例外規定でそれを許容しているはずです。)
立派な成人男性で立派なスポーツタイプ自転車に乗っている人には、ヘルメットをかぶり明るい服装、明るい照明と反射材をつけて、みんなのお手本となるように車道路側帯(または自転車レーン)を通行してほしいと思っています。それでも場所によって命の危険を感じる場合は、おとなだってルールより命のほうが大事です。遠慮しながらほかのひとの安全に配慮して歩道を通ればよいと思うし、同時に、そういう問題のある場所はルールや設備を変えて事故が起こらないように改良していく努力や行動をしていけばよいと思います。
標識・信号機に関するご意見・ご要望(警視庁)
このほか意見要望の窓口は、市区町村、都道府県、警察庁、国土交通省、政府などにもあります。
一般的には、やはり交通ルールというのは歴史もあって毎年改良も重ねられていて、「どうしてそういうルールになっているか」をよく理解して自分の頭で納得できると、なるほどたしかにこれはみんなで守ったほうが全体にとって安全で良いことだと思えるものがたくさんあります。
たとえば、自転車で左側通行をまもると、交差点や道路がつながる場所で突然クルマが飛び出してきても、そのクルマと自分の自転車との距離が長い(右側を走った場合よりも。)ので、ブレーキをかけたりハンドル操作する時間的余裕が生まれます。
(自分で絵図を描いてたしかめてみるとよくわかります)
私も「交通安全 みまもり ゴミ拾い」活動中、町のなかで「すみません」「ごめんなさい」は、ちょくちょく言います。
この日本語を日本人はよく言います。
そしてそれを私はどちらかというと良いことだし、好ましいことだと感じています。
「ゆずりあい」「おたがいさま」のこころ。
相手と自分どっちが正しいとか、ルールだからどうだとかでなくて、
みんなのいのちが安全ならいい、子供たちがケガをしなければいい。
私は、そう思っています。
参考:
自転車の交通事故防止(警視庁)
自転車交通安全教育用リーフレット(警視庁)
※さらに加えて、地域ごとに自転車に関する条例が制定されている場合があります。(例・世田谷区「子どものヘルメット着用が保護者の義務」など)
私自身の考え。
交通ルールだけを拠り所にするのではなく、さらに、体が大きく丈夫なおとな健康な成人男性は、より、子供、子供連れ自転車、ベビーカー、ゆっくり歩いている高齢者に対して、やさしさや思いやりを発揮して、じぶんのほうがカラダが強いぶん、よけいに相手にゆずるのがよいと考えています。相手がケガや事故にならないように。相手が驚いたり、怖い思いをしたりするような急な動作や、ギリギリ近い距離ですれ違ったり追い抜いたりすることがないように。
車を運転しているときも同様に、車のほうが強いのだから、平等ではなく、ルールだからでなく、自分の側が一歩ひいて、相手のぶんまで安全をかんがえてさらに思いやり運転を。
たとえば交差点の左折右折した直後の横断歩道に歩行者がいる場合はなるべく距離をあけて完全に停止してあげたり。そうやって前の車がとまったらあおらず待ってあげる。
そういう姿が「まっとう」な社会のありかたではないかと考えています。
つよい側がゆずる。つよい側がみんなをまもる。
野生のゾウの群れは、あぶない外側に強い体の大きい者が並んで立って、なかにいるよわい子供のゾウをまもります。
こどもが年を経て成長しておとなになったら今度は役割を交代。
おとなが年をとってお年寄りになったら今度は役割を交代。
みんなが、みんなを、みんなで、まもる。
できるひとが、できるときに、できないひとのぶんまでたすける。
おたがいさまで、おぎないあって。できることを。順番に。